沖縄の勤務医です。
私はこれまでに、人生のそれぞれの段階において異なる機関で教育を受けてきました。小学校(公立)、中学・高校(私立)、大学(国立)、研修医(総合病院)。
比較的おとなしく従順な性格のため、その教育に疑問を持つこともなく勉強や研修に励んでいたことから、指導者からみると扱いやすい生徒であったと思います。
しかし、最近は自分が「教育者」としての後輩を指導する立場となり、実感することがあります。
それは、「教育は宗教である」ということ。
多くの人が信じることで成り立つもの
医者は研修医になったその日から現場に放り出されて、右も左もわからないまま先輩医師の言う通りに働き仕事を覚えていきます。多くの研修医は忙しさの中、その内容に疑問をもつ余裕もなく、それが当たり前だと思いこんで、やがて自分もその組織に染まっていくのです。ブランド病院だと一層その傾向が強いといえます。
一方、職場やや地域が異なれば、その教育内容も変わってきます。異なる場所に行ってはじめて、これまで受けた教育の異質さに気づき、その絶対性が揺らぐことになるのです。
医療現場以外にも、スタバなどのブランド化された職場もありますね。フレンドリーで生き生きとた店員さんは学生たちの憧れかもしれませんが、私のようなひねくれ者からみると、「スタバ教」にしか見えません。
その他、学校、部活、習い事でも同じようなことがいえるかもしれませんね、
宗教には信者が必要であり、教育も同様で、その内容を信仰する人々がいてはじめて指導者は生徒に教育を施すことができるわけです。
日本の教育現場、特に公立学校は全国的に内容が均質化されていますから、これは一大宗派といえるかもしれません。
人々がその教育に一度疑問を持つと、これまで当たり前と考えられていた教育方法が大きな変革を迫られることありますね。昔は当たり前だった体罰などがわかりやす例でしょう。
権力に反発する同期
私の研修医の同期で、先輩医師の言うことに反発ばかりしている男がいました。彼いわく、「あいつらはこの狭い病院でただ年次が上ということで威張っているだけ。無意識に俺等を洗脳しようとしている。」とのこと。
これまで先輩のいうことに盲目的に従っていた私は、衝撃を受けました。
彼の考え方はかなり極端ですが、今となっては「教育は宗教である」ことを私に気づかせてくれた恩人と考えています。
盲信から科学へ
私の人生のバイブル、本多静六氏の「人生計画の立て方」にこのような記述があります。
人生には盲目的に教え込まれる時期と、科学的に判断し自立する時期があるということでしょう。実際には科学的な判断をせず盲目的に生きる大人も多いのですが。
個人的には、自分の子供達には小学校の間はある程度親が干渉し教育の方向性を決め、中高生以降は子供の自主性を重んじて、進路などの意思決定は任せようと考えています。
その中でいつか「教育は宗教であるり、絶対ではないとい」うことを伝えるつもりです。
読者の皆様はどのように考えますでしょうか。
コメント